排気

考え

仕事観

個人メモ

 

人のためになる、直接的な仕事は、給料低い。

 

資格職は給料高くなる傾向にあるが、雇われないければ効力を、発揮できない場合があるため、時間的自由を得られない

 

To Cは少なくとも自分は向かない

 

【やりがいで選ぶ基準】

資格職や専門職の場合で、職につくしか技術を得られない場合で、その技術を得ることが生きがいになるなら、やりがい重視で選ぶしかない。

 

例えば教諭、医師、弁護士、整備士、通関士

 

公共の場合も、案外、専門職性があり、公共でしかできないことなら、公共系の専門職はやりがいであり。

 

例えば、公立の飼育員(野生動物を育てたい、海外動物園と共同で働きたい)、消防士(消防の重機を動かしたい)、入国管理官(法務省でしかできない)、大使館(大使館でする仕事自体はどこにでもあるが、大使館職員という名誉を得るのはメリットがあるかも)

 

【今の考え】

民間で、やりたい事を仕事にするメリットは無いと断言する。to Cでのクレーム対応かつ社長の使えなさから、そう思うようになった。

民間の場合で非資格職の場合、正直誰でも潜在的にできる仕事しか無い。その就業環境に自分が合った場合には、大いに羽ばたき仕事を楽しめば良い。

民間の非資格職の場合には、必ず自分よりも強い立場の顧客がおり、この顧客を上位として取り扱わなければならない。さらに顧客のためと言いながらも収益を得るという矛盾が生じている。

仕事でやりたいようにやろうとしても、ルールや顧客の要求で、好きなようにはやれず、結局徐々に好きなことが休日に全力で出来なくなる。

【民間で働くコンセプト】

サクッと働き多くの収入を手に入れる。これを元手に休日謳歌の文化的生活

 

そこで、民間の選び方は、まず、給料+福利厚生+通勤時間を含めた総労働時間が短さ+在宅の有無、でスクリーニングをかける。

次に、やりたくない、やれない、知識技能的に合わない、ものを除外する。これで大抵のことは乗り切れる。

こだわるとするなら、英語は使えるなら使える部署(会社)を選ぶこと。英語は1人で勉強しても伸びないし、仕事後に勉強するのは非効率である。民間で唯一手に入れられる自分の人生を豊かにする能力は、英語力だと思うので、積極的にこだわろう。

 

低負荷で働き、その分休日を謳歌する。ドライブよし、写真よし、同人出版よし、副業をしないとという強迫観念を捨て、楽しもう。低賃金では出来ないことが多いということが、やりがい中心で就業してよく分かってしまった。

 

やりたい事はお金を払ってやった方がよい。結論はこれであります。

 

クレーマーという牙を向いた人間と出会う

過去に一度、イヤホンの不良をメーカーに問い合わせて、まともに取り合ってもらえなかった時、割と問い合わせをした。

 

これしか、僕はクレームを入れた事が無い。

 

だから、クレーマーは、何がそんなに気に入らないのか、どうしても分からない。なんで、そんなに強い言い方をするのか理解不能でもある。

 

僕の職種は海外本社との連携をとる部門のため、大きな会社でいえば完全なバックオフィスとなる。しかし、僕は小さな会社で働いているので、to Cの対応をする必要もある。

 

昔から、困っている人を助けたい、という考えを持っており、色々と世話焼きだった。

 

でも、知らない人間からの悪意や攻撃を受け続けることで、こんな奴ら困り続ければいいのになと思うようになった。

 

例えば

クレジットカードのエラーで引き落としが出来ないということが分かった。正午までにクレジットカードを変更しないと本日出荷できない旨をメール連絡したら、出荷時間をとおに過ぎた時間に電話で問い合わせを寄越してきた。

当日中に出荷できるかは分からないと伝えると、すごい剣幕で私の責任ではなくクレカの責任だと、ゴネ始めた。

 

色々あるので、書くのも面倒だ。共通しているのは、要求を無理やり通そうとする、高いんだからちゃんとしてと言ってくる、剣幕がすごい、電話を何度もかけてくる、メールで対応すると言うと結局メールがこない、支払い方法について会社の範疇外のことまで丁寧に説明し提案(例えばコンビニ払いもできますよ。)しているのに一向に納得しない(近くのコンビニの店員は態度が悪いから行きたくない)、こんなところか。

 

人間って、非対面だと、相手に対してここまで圧迫かつ攻撃的になるんだなぁ、という怖さと面倒くささ、そしてメンタル疲労を抱えてしまった。

 

ちなみにこのおかげで、顧客情報および声色(電話を通して話すため)から、クレーマー属性はいかに分類される。

55〜65歳♂・・・メールを通して、支払い処理に関するクレームが多い。説明しても、引き落としされることが気に入らないクレーマー。疲れるが、ポイントを抑えれば文面コピペで対応可能

 

35〜45♀・・・多くの人が働いている時間に、わざわざ連絡してくる、金持ちのつがい相手。ちょっとしたことに、メールまたは電話で、クレームを入れてくる。大抵、他社とは違うという自惚れですか?、安定供給が出来ないなら信頼できない、高級品なのにこんなもんですか、というメンタル攻撃を入れてくるのがこいつらのクレームポイントである。最低2回は説明しないと理解しない。会社ではコントロール出来ないことがクレームの答えだったりもするので困る。そして主婦しか見たことない。時間がたくさんあるはずなのに、なんで世界的なサプライチェーンの状況を自分で調べないのか不思議だ。

 

もちろん、こちらの不手際がクレームに繋がるので、真摯に対応しないといけない。お問い合わせの回答の9割は会社のウェブサイトに書いてあるので読んでいないか、客の勘違いのことも多い。

 

10人いれば8人は淡々と対応を終えられる。でも、メールや電話の向こう側の人間のことを考えない残りの2人と出会うたびに、疲れてしまい、他人なんかどうでも良くなるのだ。

 

要求を、通したいなら、良い客であろうと自分で自分に誓う。

また、僕自身が、死ななければ、それ以外は別に大丈夫と思っているので、重症クレーマーの事を理解するのは無理なんだろうなと感じた。

 

都市は人の屍の上に成る

4月になると沢山の人が、新しい生活を始める。

 

フレッシュさのあるスーツ姿の若者は、おそらく私と同年代だが、希望に満ちた目をしているところから判断するとおそらく新卒なのだろう。

 

僕は転職活動で採用され、東京のある職場でホワイトカラーとして働き出した。

 

そこで待っていた職場生活は、社長に詰められ、ダメ出しを受け続けることだった。

 

初出勤して、驚いたことは、引き継ぎ資料が用意されていない中の、引き継ぎである。

 

社長曰く

「まずは慣れるだけ、覚えなくて良い」

「とりあえず2つだけ、覚えられるように頑張って」

 

私はこの言葉を信じたが、実際には全く異なる状況だった。業務は10以上あり、細分化すればもっと多い。これをリモート環境が整っていないのにも関わらず、相手方は東京にいないので、会社にいながらリモートでの引き継ぎを1週間でこなす必要が生じていた。どんな業務があるのかの資料が一切用意されていないので、知らない言葉の呪文を延々と聞いている感覚だった。

 

こんな状況で、効率的に引き継ぎが出来る訳がない。

 

ただ、これに気がついたのは引き継ぎ5日目くらい。結局、リモートでパーっと説明を説明を受けただけで、実践が無ければ仕事など覚えられなかった。

 

早くも、私は引き継ぎ元の社員と社長から詰められる日々が始まった。

 

時には朝一、時には退勤時間30分前、別室に呼び出される。仕事は覚えたかと聞かれ、他の社員から私の仕事の様子を(私の出来ていないことだけを抽出して)ヒアリングした情報を元に、詰められる。

 

そこで、引き継ぎ資料を簡単でいいから箇条書きで書いて欲しいこと、残業を使い業務を整理する時間を設けること、もう残業代なくてもいいから職場で習ったことを整理したいこと、リモートの画面を録画する事を許可して欲しい、と訴えたが全部拒否された。

 

結局紙のメモを片手にやるしかなく、大量の仕事を構造化する機会を作れなかった僕は、仕事出来ない人と言う第一印象を職場に与えることになった。

 

だんだん分かってきたのだが、職場の雰囲気は悪い。社長と営業は仲良く、特定の社員の陰口を話す。顧客に笑顔になれるくせ、社員には辛辣に当たる(しかも、人を選ぶ)。

 

土日以外はご飯を食べられなくなり、退勤後はもう何も出来ない。自分が屍になった感覚に襲われた。

 

僕の勤める会社は高級品を取り扱う。同じように高級品を扱う会社は、綺麗なオフィスを都内に構え、ブティックで接客する社員は服も笑顔も綺麗である。

 

そんな、東京都の煌びやかさの中を歩いていると、怒られる落ち込み、鬱を感じる人が作り出す偽りの煌びやかさのように見えてきてしまった。

 

別に死にやしないどうしようもないホワイトカラーの仕事で、意味のない疲労をしてまで作り出される東京の美しさに、ゾッとし、改めて自分らしく行きたいと望むようになった。

 

青森県での初詣2024

2024年初の旅行は青森県だった。

 

2015年に初めて青森県弘前市に滞在した。そこで感じた豊かな自然と生活に根付く文化に心が温まり、以降3年に一度くらいの頻度で青森県津軽地方を訪れてきた。

今回の旅は八戸だ。青森県出身の友人からは「弘前と比べると、八戸には何もないよ。なんせ工業地帯だから。」と聞かされていた。

降り立つ八戸市には、弘前市のような分かりやすい観光施設は確かに無かった。しかし、海岸線沿いにドライブすると、窓越しに見える激しく波打つ太平洋に迫力を感じた。

途中に何度か海岸線沿いにある広場のようなところに車を停めて、冷たい海風を感じると自分の生命力が高められている気がする。青森県は私にパワーをくれる場所である。

ドライブの終着点は蕪島神社である。タイミングよく夕日に染まった蕪島神社で、初詣に丁度良いので、絵馬を奉納し、おみくじを楽しんだ。

おみくじは末吉。コメントは辛口だった。いつもなら信じないおみくじの悪い結果に意外と動揺してしまったのは、年初めの地震と今まさに感じた海の動きに、あくまでも人は地球の匙加減一つでどうにでもなってしまう事を無意識に感じたからかもしれない。

絵馬には今年一年安全に楽しく過ごせるようにと書いた。絵馬を吊るすために見返した時、そういえば「〇〇が欲しい」とか「お金待ちになりたい」とか欲望を書かなくなったなと頭の中で一言述べた。こうやって毎年なんとなく絵馬を書いているが、私は徐々に子供から大人に成長しているんだなと実感し、ここまで生活してれた事を改めて振り返るのだった。

蕪島神社は岩の上にある。初詣を済ませて、階段を降りると見事な夕日に照らされていた。青森県の海は荒々しく美しい、だから好きだ。おそらくパッとこの写真を見ても八戸だとは分からないだろうけれど、私にとって青森県の海は何度も訪れたくなる大切な場所だ。

完璧主義の呪縛

自分はどうやら、完璧主義なようである。「ようである」というのは、自分で自分が完璧人間であるということに気がつく事ができていなかった、という意味である。

 

人生楽しく生きていこうと思い、そういうふうに振る舞う。そのため。割と「自由人」「好きな事やってていいな」「楽しそうに過ごしてる」「仕事熱心だね」等々、周囲の人からの私への評価はポジティブさが全面に出ており、このように思われる事は嬉しい。このようなポジティブな面は本当の私の一部であると信じている。

 

一方で、私は自分の中で求める自分像にいつまで経っても追いつけず、それでいて努力できない事に、気持ちを追いやられしまっている。このネガティブな自分もまた本当の私である。

 

私が社会に出る前、大学時代を除いて心から楽しめた経験はほとんどない。周囲は明らかに私よりも要領よく物事を進めてしまう。そのため人よりも努力を強いられ、結果は人並み以下だった。学力面では次の試験、次の進級、次の進路の心配ばかりで気持ちが落ち着かず、趣味の面でも自分より上手い後輩に先を越される不安感を抱えてきた。

 

今の悩みは外国語能力の伸び悩みであり、周囲に英語を話す日本人がいれば自分の能力の無さに嘆いてしまう。さらに外国語の場合は海外赴任や留学といった、自分の普通の努力の範囲で用意できる環境以上の環境を、外部からの助け(例えば実家の太さ、奨学金を取れるだけの頭脳、恋人が外国人、海外赴任させる度量のある企業への就職)で得られた事実に妬みを感じる。

 

応用行動分析という学問があり、間接的に人間の努力はどうして続くのか(もしくは続かないのか)明らかにしている。

 

原理はこうである。

 

他人より英語を話せない→「勉強する」→他人より英語を話せる(正の強化により、「勉強する」という行動が出てくる)

 

よく人と比べるな、という。その理由は完璧主義者の仮想する「他人より」の「他人」のレベルが高すぎて努力し続けられなくなるからだ。

 

不幸な事に、私が比較する「他人」は周囲の人の中で抜群にできる人、それも「外国語の場合はAさんレベル、運動能力はBさんレベル、仕事能力はCさんレベル」と幾つもの要素を高いレベルにしたがる傾向があるように思う。その理由は特に高校時代に遡る。

 

私はギリギリの成績で頭の良いクラスに放り込まれ、私から見たらなんでもできる人に囲まれた。まず第一に東大至上主義であるため、東大レベルなら頭良いだけで価値あり、それ以下の「最低」地方国立(なぜか京都大と北大くらいらしい…。地方にあるけれど地方国立じゃないだろうに)に行く人は頭の良さ+部活動の実績やら体育や芸術やら満遍なく高いクオリティで出来なければ価値なしと、学校として判断していた。

そんな戦いに勝てない私は、早々に勝負から降り文化祭に全精力を集中する3年間を過ごした。自分なりに好きな事をして満足に過ごしたと思っていたが、心の奥底で燻る劣等感と、完璧にこなさないと評価されない恐怖が何年経っても消えず、結果的に完璧主義に陥っていたようなのだ。

 

そして、努力を楽しんだ記憶がないために、努力しないといけないのに、努力できない自分が嫌い、という状況にある。

 

ある日、外国語を勉強しないと、と言いつつ横になっていたり、眠ったりしているばかりの私に目を覚ます一言が放り込まれた。

 

「やらなきゃって言ってやらないの意味なくない?ていうか、昔から勉強で努力するのが苦手なら勉強しようとする方がおかしくない?」

 

私は勉強が苦手なのだと、第三者からはっきりと意見され、ショックだったのと同時に、ある意味開き直れたのだ。

 

「そもそも努力しても伸びないクソな頭脳しか持てなかったんだから、完璧なんて無理だし、無理な時は無理。サボってもいいじゃん。、てか仕事してるのになんで帰ってからも努力しないといけないんだ??いつリラックスするんだよ。大体努力できる人は、努力して「他人より」も良い結果が出る事をたくさん経験できたただのラッキーマンじゃん」と。

 

そこで私が私に期待していた、外国語話せて、運動させたらなんでもできて、絵も音楽もできて、人を楽しませることができて、お酒もたくさん飲める、それでいて引き締まった体型を維持しているダンディなおじさん像(あと数十年後のなりたい姿)に蓋をしてみる事にした。

 

周囲の環境への非適応を引き起こし、いつの間にか完璧主義者となった私は、これから自身の呪縛を解く事に善処していけば、少なくとも自分で自分を好きになれるんじゃないかと、小さな期待を寄せようと思う。