排気

考え

完璧主義の呪縛

自分はどうやら、完璧主義なようである。「ようである」というのは、自分で自分が完璧人間であるということに気がつく事ができていなかった、という意味である。

 

人生楽しく生きていこうと思い、そういうふうに振る舞う。そのため。割と「自由人」「好きな事やってていいな」「楽しそうに過ごしてる」「仕事熱心だね」等々、周囲の人からの私への評価はポジティブさが全面に出ており、このように思われる事は嬉しい。このようなポジティブな面は本当の私の一部であると信じている。

 

一方で、私は自分の中で求める自分像にいつまで経っても追いつけず、それでいて努力できない事に、気持ちを追いやられしまっている。このネガティブな自分もまた本当の私である。

 

私が社会に出る前、大学時代を除いて心から楽しめた経験はほとんどない。周囲は明らかに私よりも要領よく物事を進めてしまう。そのため人よりも努力を強いられ、結果は人並み以下だった。学力面では次の試験、次の進級、次の進路の心配ばかりで気持ちが落ち着かず、趣味の面でも自分より上手い後輩に先を越される不安感を抱えてきた。

 

今の悩みは外国語能力の伸び悩みであり、周囲に英語を話す日本人がいれば自分の能力の無さに嘆いてしまう。さらに外国語の場合は海外赴任や留学といった、自分の普通の努力の範囲で用意できる環境以上の環境を、外部からの助け(例えば実家の太さ、奨学金を取れるだけの頭脳、恋人が外国人、海外赴任させる度量のある企業への就職)で得られた事実に妬みを感じる。

 

応用行動分析という学問があり、間接的に人間の努力はどうして続くのか(もしくは続かないのか)明らかにしている。

 

原理はこうである。

 

他人より英語を話せない→「勉強する」→他人より英語を話せる(正の強化により、「勉強する」という行動が出てくる)

 

よく人と比べるな、という。その理由は完璧主義者の仮想する「他人より」の「他人」のレベルが高すぎて努力し続けられなくなるからだ。

 

不幸な事に、私が比較する「他人」は周囲の人の中で抜群にできる人、それも「外国語の場合はAさんレベル、運動能力はBさんレベル、仕事能力はCさんレベル」と幾つもの要素を高いレベルにしたがる傾向があるように思う。その理由は特に高校時代に遡る。

 

私はギリギリの成績で頭の良いクラスに放り込まれ、私から見たらなんでもできる人に囲まれた。まず第一に東大至上主義であるため、東大レベルなら頭良いだけで価値あり、それ以下の「最低」地方国立(なぜか京都大と北大くらいらしい…。地方にあるけれど地方国立じゃないだろうに)に行く人は頭の良さ+部活動の実績やら体育や芸術やら満遍なく高いクオリティで出来なければ価値なしと、学校として判断していた。

そんな戦いに勝てない私は、早々に勝負から降り文化祭に全精力を集中する3年間を過ごした。自分なりに好きな事をして満足に過ごしたと思っていたが、心の奥底で燻る劣等感と、完璧にこなさないと評価されない恐怖が何年経っても消えず、結果的に完璧主義に陥っていたようなのだ。

 

そして、努力を楽しんだ記憶がないために、努力しないといけないのに、努力できない自分が嫌い、という状況にある。

 

ある日、外国語を勉強しないと、と言いつつ横になっていたり、眠ったりしているばかりの私に目を覚ます一言が放り込まれた。

 

「やらなきゃって言ってやらないの意味なくない?ていうか、昔から勉強で努力するのが苦手なら勉強しようとする方がおかしくない?」

 

私は勉強が苦手なのだと、第三者からはっきりと意見され、ショックだったのと同時に、ある意味開き直れたのだ。

 

「そもそも努力しても伸びないクソな頭脳しか持てなかったんだから、完璧なんて無理だし、無理な時は無理。サボってもいいじゃん。、てか仕事してるのになんで帰ってからも努力しないといけないんだ??いつリラックスするんだよ。大体努力できる人は、努力して「他人より」も良い結果が出る事をたくさん経験できたただのラッキーマンじゃん」と。

 

そこで私が私に期待していた、外国語話せて、運動させたらなんでもできて、絵も音楽もできて、人を楽しませることができて、お酒もたくさん飲める、それでいて引き締まった体型を維持しているダンディなおじさん像(あと数十年後のなりたい姿)に蓋をしてみる事にした。

 

周囲の環境への非適応を引き起こし、いつの間にか完璧主義者となった私は、これから自身の呪縛を解く事に善処していけば、少なくとも自分で自分を好きになれるんじゃないかと、小さな期待を寄せようと思う。